今月の特集曲

「二人静」の裏解説

 悲恋物の題材に敢えて、霊に憑かれた菜摘女(ツレ)と静御前の亡霊(後シテ)との相舞(序之舞)にしたのはなぜ?

 能の恋模様は、賢明な恋「井筒」、狂乱の恋「班女」、儚い恋「半蔀」、妄執の恋「葵上」、怒濤の恋「道成寺」、妖気の恋「鉄輪」と百花繚乱。
 でも所詮は、物語や伝説。
 だが、「二人静」は違います。静御前は歴とした実在人物です。一世を風靡したカリスマ白拍子静御前と一代のアイドル英雄源義経との大物カップルのスキャンダラスな大恋愛は義経の死と云う悲劇的な終結を迎えます。この史実が、「二人静」のベースです。
 しかし、源平の争乱のこの御時世、時代に翻弄された哀れな悲恋など珍しくもない。なのに、この御二人の恋模様が鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』にまで書かれているのはなぜ?
 そう、この謎が解ければ、この「二人静」の“?”も解決されるでしょう。
 とりあえず、『吾妻鏡』を見てみましょうね。

−義経との吉野山での生別− 

第五 文治元年十一月
○十七日丙申。豫州(源義経)籠大和國吉野山之由。風聞之間。執行相催惡僧等。日來雖索山林。無其實之處。今夜亥剋、豫州妾靜自當山藤尾坂降于蔵王堂。其躰尤奇恠。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。靜云。吾是九郎大夫判官今伊与守妾也。自大物濱豫州來此山。五ヶ日逗留之處。衆徒蜂起之由依風聞。伊与守者假山臥之姿逐電訖。于時与數多金銀類於我付雑色男等欲送京。而彼男共取財寶。弃置于深峯雪中之間。如此迷來云々

 雪深い吉野山での静と義経の別れは、ただただ美しい恋のクライマックスのはずである。
 でも静の姿は惨めである。これが現実の凄みです。

−義経の自害−
第九 文治五年閏四月
○卅日巳未。今日。於陸奥國。泰衡襲源豫州。是且任勅定。且依二品(源頼朝)仰也。与州材民部少輔基成朝臣衣河館。泰衡從兵數百騎。馳至其所合戦。与州家人等雖相防。悉敗續。豫州入持佛堂。先害妻廿二歳。子女子四歳。次自殺云々

 義経は最後に正妻と逃亡中に産まれた娘を道連れに自害する。
 何かが違うような...。殿方の思考回路は複雑です。

−鶴ヶ丘八幡宮での静の舞曲−
第六 文治二年四月
○八日乙卯。……然而貴命及再三之間。然而貴命。憖廻白雪之袖。發黄竹之歌。左衛門尉祐經鼓。是生數代勇士之家。雖継楯戟之基。歴一臈上月之職。自携歌吹曲之故也。從此役歟。畠山二郎重忠。爲銅拍子。靜。先吟出歌云。
よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき
次歌別物曲之後。又吟和歌云。
しつやしつしつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな
誠是社壇之壯觀。梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云。於八幡宮寳前。施藝之時。尤可祝關東萬歳之處。不憚所聞食慕反逆義經。歌別曲。奇恠云云。御臺所(北条政子)被報申云。君爲流人坐豆州給之比。於吾雖有芳契。北條殿怖時宜。潜被引籠之。而猶和順君。迷暗夜。凌深雨。到君之所。亦出石橋戰場給之時。獨殘留伊豆山。不知君存亡。日夜消魂。論其愁者。如今靜之心。忘豫州多年之好。不戀慕者。非貞女之姿。寄形外之風情。謝動中之露膽。尤可謂幽玄。抂可賞翫給云云。于時休御憤云云。小時押出於御衣卯華重於簾中。被纒頭之云云

 お待たせいたしました。最大のイベントがやってまいりました。
 静と義経の悲恋?が800年と云う時の淘汰に耐え得る力があったのは、ひとえに、この1日があったからです。
 静の恋心が美化されるのも北条政子の言葉により私たちが純粋な恋心の発露と錯解するためです。
 幕府もそして義経さえも、妾の白拍子としか静を遇していません。なのに、この日のこの舞曲と政子の言葉で、すっかり静と義経の関係はピュアラブ、それも悲劇の大恋愛へと昇華してしまいました。

 だが、後世、これを斜に構えて見ていた人がいました。
 そう「二人静」の作者です。たぶん世阿弥かな。
 確かに、霊に憑かれたツレと静の亡霊の後シテが美しい装束を身に纏い、寸分違わず相舞う姿は美しく、幻想的な演出効果を生みます。
 しかし、人に憑くだけでは足りず、自らも亡霊として出現する静御前とはなんでしょうか?
 実在人物としての静も、時の最高権力者の前で敵対する自らの恋しい人への思慕をストレートに表現する気迫と、それによる宣伝効果を判断する冷静さ、臨月間近の身重の身でそれを実行する強靱さを持っています。
 この実在人物の静を描くには、「二人静」の静御前を形式美からはみ出させるしかなかったのだと思います。
 義経と共に亡くなった正妻は『吾妻鏡』の中で、“妻”としか書かれていないのに、妾はしっかり“静”と固有名で書かれています。
 『吾妻鏡』の筆者も、京女には甘いのよ。

(文責:めぐ)

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