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ところで、桜の女神は、コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)だそうです。 吉野では、勝手神社にお祭りされています。 そう勝手神社と言えば、謡曲「二人静」の舞台でもありますね。 義経と静御前のお別れの地です。 残念ですが社殿は近年焼失したようです。 さて、突然ですいません。 雲井と言えばやっぱり歌に触れずにはおれません。 ですが、今回は元歌ではなく、なんの関係もない万葉集から…、それも柿本人麻呂の歌をチェックしてみたいと思います。 なんでや?とお思いの方、ちょっと我慢して目通しの程お願いします。 さて、その歌ですが 娘子らが 袖振留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき我は です。 おとめらが(舞いながら)袖を振った山の社を囲む美しい青垣は、久しくあるが、同じくらい長い間、私はあなたを思っていたよ。と言う感じの恋歌でしょうか? 比喩が長いので一瞬ひるんでしまいますが、恋情の切なさがとりあえずはあっさり伝わります。 が、今となってはなんのことか分かリづらいこの比喩…。 もちろん、飛鳥浄御原宮の当時、吉野には離宮がありました。 天武・持統天皇ご夫妻には、ゆかりも深く数多く行幸されているようですし、当時の普通の人にとって、吉野はちょっとした憧れの思いのある地だったのかもしれません。 ですが、この比喩には、それとは別に意外な面白さもありました。(私だけかな、面白いの…。) 実際に、吉野の勝手神社の後方に袖振山(そでふりやま)と言う山があるそうです。 皆様ご推察の通り、大海人皇子が社前で琴を奏でられたとき、天女が現われて舞いを舞った山だそうです。(それが五節舞の起源といわれているんですよねえ。) 柿本人麻呂の歌の瑞垣は、勝手神社の青垣の事だったのではないでしょうか? 祭神が桜に縁の深い木花咲耶姫であれば、そのころまでに建って久しいお社があったって全然不思議はないですし。 もしそうだとすると、そこで不思議に思うこともあります。 柿本人麻呂といえば、持統天皇や文武天皇の朝廷に仕えた宮廷歌人です。 もしかすると天武天皇在位の頃から出仕していたかもしれません。 したがって、大海人皇子が吉野で天女にあったとすれば、ほぼ同時代の人と言えます。 それでいて、もうこんな風に歌に喩えとして使えるということは、「天武天皇天女遭遇の件」は、そういう事があっても不思議でないというか、現実味のあった話だったということなんでしょうか…。 今だったらちょっと考えられませんよねえ…。小泉首相が軽井沢でバイオリン弾いてらしたら、天女が現われて舞いを舞ったとか言われても…。 伝説がリアルタイムで存在できた万葉の時代のおおらかさゆえでしょうか。 それとも、天女にも出会えてしまう程、人間が神秘的な存在だったのでしょうか。 きっと、当時は木々の精霊の声も聞く事が出来たでしょうね。 その時代の吉野山では、吉野天人のお謡いにもあるように、桜達のささやきも耳に届いたかもしれませんね。 鳥の声さえ耳を澄まさなくては聞こえない私達には、全くうらやましい話です。 今年のお花見は、桜のささやきに耳を澄ましながら、袖振山を目当てに勝手神社を訪ねてみてはいかがでしょうか。 もしかすると、突然、天から花弁が降ってきて…。 (文責:雲井カルガモ) |
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