今月の特集曲

 「吉野天人」の舞台
吉野と桜について、ちょっと調べてみました。
にわか調査ゆえ間違いあれば、ご訂正をお願いします。

なぜ、吉野山は桜の山となったか…。
歴史は古く、今から1300年ほど前、役行者が金峯山寺を開くときに由来します。
役行者は、感得した蔵王権現を桜の木に刻んだそうです。
故に桜はご神木として大切にされるようになりました。

現在吉野には、桜の木が200種約三万本あるといわれています。
ですが、そのほとんどはシロヤマザクラです。

例年の桜の開花の記録を見ますと、
大体の予想としては、まず、4月上旬に 下千本(吉野神宮付近)、中千本(如意輪寺付近)が見ごろとなります。
次に、4月中旬にかけて 上千本(水分神社付近)、最後に、中旬から下旬にかけて 奥千本(西行庵付近)と移っていくようです。
まさに、4月の一ヶ月は花の山となります。

というのが、極めて普通の話なのですが、面白い本を見つけました。
(はじめて堂島のジュンク堂に行きました。産後浦島カルガモになっていたので、まあビックリした本屋サンでした。)
鳥越皓之さんという方が書いた「花をたずねて吉野山」という本です。
桜を神木として、民衆が大切にしたということには事実であろうが、それが役行者が蔵王権現を桜の木に彫ったという
事に由来するという事には疑いありと言うところから、書き出されています。
それでは一体吉野山に何が起こったのか…。

その部分を、簡単に(ほんとにごく簡単にです…。)、紹介してみますと…。

万葉の昔、吉野は、神仙郷とみなされ、大和の水分の地でもあったそうです。
やがて、水の神(山の神)が鎮座する山に、山岳仏教が根付き、政治的敗北者の安全地帯となりました。また国家レベルでの雨乞いの祭祀が執り行われたのではないかとも推則されています。
都人には、神秘に満ちた特別の山であった事に間違いはないでしょう。ですが、決して桜の名所ではありませんでした。

古来日本には、山の神に花をささげると言う民間信仰というか、風習というかが全国的にあったそうです。花は神を鎮めたり、依代となったりする不思議な存在でありしました。
ところで、吉野の桜が歌われだしたのは、実際のところは、西行や「新古今和歌集」以降だそうです。紀貫之の頃までは、歌に吉野の桜が登場する事があっても、残雪かと思えば桜だったとか、そういう感じでしかないのだそうです。
「花の吉野山」を唯の歌枕としてではなく、観念として人々に印象付けたのは、やはり西行法師の和歌の影響がもっとも大きいということは疑う余地もない事のようです。

ですので、神仙郷であった万葉の時代から、西行の生きた平安末期までの間に、吉野は花の山となったことは間違いありません。
また、比較的近世の江戸時代などの書物の記載により、子どもが桜の苗木を売っており、願い事の成就のために人々が桜の植樹をしていた事は明白なのだそうです。

では、西行の時代の少し前に吉野山に何が起こったのか…。
吉野は大和の水を司る地であったこと、水の神は山の神であり、その山の神に人々は花を供える信仰を持っていたこと、また、その時期が中世の荘園制の確立の時期に重なる事など、いろいろ考え合わせると著者の推測は、「農民達による水を差配する神への信仰が、吉野山を一面の桜にする基本的原因となった」ということのようです。
   
その後前述の役行者に由来する話が確立し、吉野の桜はどんどん神木として大切にされるようになっていったということなのでしょうか。

もともと松や檜や杉と言った常緑樹が勢力を保っていたであろう自然の山を、生命力の比較的弱い桜が征服したのはすごい事だと思います。その桜を支えつづけたのは人間。守りつづけていくのも人間…。吉野山について通俗的な事しか知らなかった私ですが、ちょっと面白い神秘性を秘めた山となりました。

(文責:雲井カルガモ)

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