今月の特集曲

「屋島」ちょっと解説

前シテは漁師の老人、後シテは源義経の霊という二場物の修羅能。
シテが戦勝の将軍ということで、「田村」「箙」とともに、勝修羅と称されています。

「錣引き」や「弓流し」といった語りや、カケリの舞など、壮烈な戦闘シーンを想像させる聴きどころ見どころが多く、義経の勇ましい大将ぶりが描かれた、華やかで颯爽とした印象があります。しかし、一方では、ワキの僧に対して回向こそ頼みはしませんが、成仏できない身を嘆き、この世への執心の深さを訴えるシーンもあり、陰影に富んだ内容となっています。

「申楽談義」に、[通盛・忠度・義経、三番 修羅がかりにはよき能也]とあります。
(義経、とは「屋島」のことです! ) 作者は世阿弥説が有力です。


「屋島」で語られているエピソードについて

「平家物語」によると元暦二年(1185年)2月18日朝のこと。屋島の平家は源義経の急襲をうけ、船に乗り移る。戦いは船と陸との間でおこなわれた。いわゆる屋島の合戦。
能楽「屋島」では、この合戦のハイライトシーンが次々と語られます。詳しくは「平家物語」巻十一をご参考に。ということで、ここでは簡単にご説明いたします。

一、 錣引き

源氏の大将・義経の名のりの後、両軍ともに攻めゆき、駆けゆきあうところ。
逃げる三保谷十郎を平家の悪七兵衛景清が追いかけて、ついに三保谷十郎の兜の錣(しころ。兜の左右と後とに垂れて首の部分をガードするもの)を引きちぎったという。体が大きくて力持ちだったという平景清の武勇伝。
ところで、この悪七兵衛景清という名前にピン!ときませんか?そう、その後も執拗に源頼朝の命を狙い続け、「大仏供養」でもご活躍のあのお方なのですよ。

二、 佐藤継信、菊王丸の最期

勇猛の能登守・平教経は義経を射ようとするが、その危機を察知した佐藤継信(義経四天王の一人)は身替りとなって、その矢に当り命を失う。
菊王丸(教経の侍童)はその継信の首をとろうと、駆け出したところ、佐藤忠信(継信の弟)の射た矢に当り倒れる。教経は菊王丸をひっさげ船に戻る。
両軍はともに痛手を負い、深い悲しみの中、撤退することとなる。

三、 扇の的(那須与一)

陸と沖でにらみ合いが続く夕暮れ時のこと。一艘の小船が陸にむかってやってくる。舳先には美しい乙女が一人。舳先に立てた竿の先の扇を指さしている。
「あの扇を射落とせということではないか?」
その大役に源氏の武士・那須与一宗高が選ばれた。
鏑矢が浦風にぴゅうんと鳴り響く。
扇の要ぎわ、一寸ばかりのところをぶつりと見事に射切ったのであった。

四、 弓流し

源氏の武士は海中に馬を乗り入れて平家の船を追う。両軍の死闘は続いた。
と、義経の弓がなにかのはずみで海中に落ちてしまう。
義経が拾い上げようとしていると、平家方が船上から熊手で義経を引っ掛けて
海中に引きずり落とそうとする。
しかし、義経はあわてずに弓を取り戻し、無事に源氏の陣に戻ってきました。
味方の武将たちは、大将として軽率な行為ではないか、と申し上げるのだが、
「弓は惜しくはない。弓を敵に取られて、この小さい弓が源氏の大将・義経の弓かと嘲られては、それこそ末代までの恥辱と考え、弓を拾ったのだ」と義経。

なぜ、小さい弓はいけないのか?
弓が小さいとその持ち主が小兵であると推断されてしまうからである。
義経は優れた武将であったが、まだこの時点では武勇の名はそれほど知れわたっておらなかった、ということなのだ。武士とはたいへんなのだ。

(文責:映)

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