経正の内容 |
守覚法親王は行慶僧都に、このたびの一ノ谷合戦で討死した平経正の法要を おこなうよう仰せになりました。 秋、9月。京都の仁和寺では経正を弔う管弦音楽による法要が催されていました。 仏前には<青山>という銘の琵琶が供えられています。 法親王は経正を少年の頃からかわいがっておられました。 琵琶の名手だった経正に秘蔵の名器<青山>をお預けになられたのは法親王でした。 しかし、平家一門の都落ちの際に、経正は法親王に<青山>をお返ししていたのでした 。 その夜おそく、行慶は経正を偲んでおりました。 すると、どこからか、白楽天の詩をよむ声がきこえてきます。 「風枯木を吹けば晴天の雨、月平沙を照らせば夏の夜の霜」 不思議に思い、あたりを見わたしていると、燈火の光の中、 かすかに人影が見えたように思いました。 こんな夜更けに誰であろうか。 「われは経正の幽霊なるが、御弔いのありがたさに、これまで現われ参りたり」 声のする方を探しますが、姿はすでにありません。 しかし、なつかしい仁和寺に経正が帰ってきたのです。 夢なのか、現なのか、本当に不思議です。 声はなおも行慶に語ります。 「亡者も立寄り燈火の影に、人には見えぬものながら、手向の琵琶を調むれば」 慣れ親しんだ、今も心引かれる<青山>。 経正は<青山>を弾じます。 美しく、切々と絶えまなく流れるのは、昔を思い出す舞の曲です。 夜の管弦の遊びよ、はやく終わらないでほしい。 「あら名残惜しの、夜遊やな」 それは束の間の心を慰める楽しみでした。 うらめしいことに経正に修羅の苦しみの時がおとずれます。 経正は苦しむ姿を人に見られたことわ恥じながら、燈火を吹き消して、 暗闇の中に消えていくのでした。 |
経正のプロフィール |
正四位下皇太后宮亮但馬守。 平経盛(清盛の異母弟)の嫡子。 8歳の時、仁和寺に入り、13歳で元服するまで守覚法親王に仕える。 『平家物語』の巻七によると、17歳で勅使として宇佐の八幡へ下向する。 この時に法親王より秘蔵の琵琶< 青山>を賜わる。 (青山=せいざん、と読みます。青山は<獅子丸>・<玄象>とともに 唐から伝わった琵琶の名器です。) 宇佐の拝殿で秘曲を奏した時は、あまりの素晴しさに涙する者も あったという。(巻七「青山之沙汰」) また、義仲追討のため、北国へ赴く途中、竹生島を詣で、 そこに奉納してあった琵琶を弾いたところ、明神が感応されて、 白龍となり現われたという。(巻七「竹生島詣」) 寿永2年7月の平家一門都落ちの際には、わずかな従者とともに仁和寺に訪れて 「さしもの我朝の重寳を田舎の塵になさんことの口惜しう候」 と青山を法親王にお返しし、暇ごいをしたのである。 この時、行慶はあまりに名残を惜しみ、桂川の端まで経正を 送ったのであった。(巻七「経正都落」) (能楽『経正』はこの「経正都落」を題材にしています。) 翌年の寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷にて討死。 歴史上の記録が乏しく、生年は明らかではありませんが、 敦盛の兄にあたるので、20歳前後かとおもわれます。 合掌。 『平家物語』の巻七「経正都落」はそんな長文じゃないですから、 一度読んでみては!古文が面倒は方には吉川英治の「新・平家物語」を お勧めします。 (文責:英) |