今月の特集曲

 「天鼓」のみどころと解釈
親子の愛情と名器の神秘を主題とした作品です。
二段構成の作品ですが、前後でシテの人物もかわり、情趣も一変します。

子を失った老人の悲しみを描いた前場は、たんい後の場面での説明である以上に、ひとつの劇としての内容と重みをもっています。三ノ松に立っての老人の悲しい心境を謡う部分、ワキから勅命を伝え聞き、ためらいながら参内するくだり、繰り言を述べながら奥殿へ進み、気を取り直して鼓を打つ等、いずれも深い陰翳をもった所作が続きます。そして後場の颯爽ともいえる歓喜に満ちた少年天鼓の舞とは、静と動、暗と明、悲しみと喜びと見事に照応し合っています。

前段の悲しみに打ち沈みながらも憤りを表さない老父、後段の、ただ一度の回向をありがたがる少年。この2人の態度には、今日からすれば反抗らしい姿勢は見あたりません。しかし、むしろそうした政治性を超越した、父と子の魂のふれあいと、おのれの芸術の勝利をうたい上げたと見るべきでしょう。天鼓は鼓の名であると共に少年の名でもあり、それは芸術の象徴でもありあます。芸術は権力によって左右されず、真にそれを理解してくれるものだけに語りかける、という解釈も成り立つワケです。

上記が一般的な解釈のようですが、別の見方もあるようです。

(別の解釈)

戦後の研究で完全に否定されましたが、戦死した国学者小林静雄は「養子(三郎音阿弥)に楽頭職を奪われ、わが子(十郎元雅)に急死された世阿弥が『芸術は権力より強し』と権力に反抗して書いた曲」という美しい仮説を発表して話題になったことがあるそうです。
理不尽な権力に我が子を殺されたという点で「藤戸」に似ていますが、少しも帝を恨むことがないのが天鼓です。

天鼓とは後漢書によれば隕石のことで、その形が鼓を打つ子供に似ていたことからそう呼ばれたようです。ある解説に天鼓の処刑を「後漢の帝ならばさもありなん」とありましたが、岩波新書『中国の歴史』(貝塚茂樹)上の巻によれば、後漢の光武帝以下三代の帝王はいずれも名君、以下の皇帝は即位時いずれも十代前半ないしそれ以下の幼帝で外戚か宦官の操り人形で、とても自分の意志で罪人の父親を召喚し、自分の前に通すほどのワガママぶりを発揮するとは思えません。「さもありなん」では後漢のどの帝でもみなそのように理不尽で暴虐だったと取れます。

天鼓で下宝生ワキの「喜びの声限りなし」の句は、少年天才芸人天鼓の芸が聞く人に正気を失わせるほど魅力的で、それが暴動のきっかけにならないかと恐れた役人が勅命と称して鼓を取り上げようとしたと解釈することもできます。でなければ音も聞いていない帝が鼓「だけ」を欲しがるのはおかしいし、楽人として鼓ごと天鼓を召し、演奏させ、召し抱えれば済むことで、名君が幼帝がいきなり鼓だけ欲しがる設定そのものに無理があると思います。

(文責:ぴのこ)

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