今月の特集曲

「勝修羅(かちしゅら)」とは
 修羅物とは、武将をシテとした能のことをいいます。源氏、平氏など、武人が主役として現れます。
 大抵は、生前、戦乱に従事した罪により地獄=修羅道に墜ち苦しむパターンです。『敦盛』や『経正』などに見られるように、彼らは和歌や歌舞音曲をたしなんでいることが多く、かなしさと美しさが添えられています。

 修羅物には、殆どが敗れてしまった人々がシテですが、稀に勝った人をシテとしたものがあり、その1曲が『田村』です。観音の加護により鬼神を討伐するという華やかなもので、およそ憂いのかげりなく颯爽とした作品となっています。

 又、小書(替装束、白式など)によっては、後シテの面が天神(常は平太)となり唐冠を被っていたりする様に、人間というより神体に近くとらえられているようです。


「坂上田村麿」とは
◇天平宝字2年(758年)〜弘仁2年(811年)

彼について書かれた文章を見ると

・身長5尺8寸(175.8cm)。胸の厚さ1尺2寸(36.38cm)。 (1尺=30.3cmで計算)
・顔は赤く、髭は黄金色に光る。
・勇気・力量・衆人にすぐれた将軍の器。
・怒って目をむけば猛獣もたちまち倒れる。
・笑って眉をのばせば、子どももいちはやくなつく。

などなど、これらの人柄から、曲が作られたという雰囲気。当時、私的な寺院の建立は禁じられていたにもかかわらず、清水寺を私寺として許可されたのも、その人望と実績の賜なのであろう。

なお、死後その遺骸は甲冑梹杖を着用し、立ちながらにして葬られ、死してなお、都を護衛している。京都市東山区栗栖野に彼の墓とされる遺跡があり、国家有事の折りには雷鳴のような轟きを放って揺れ動いたという話である。


前シテ : 童子
後シテ : 平太

平太のひとりごと

 私の顔は、やっぱり濃い・・・のだろうか?
 まるく見開いた目といい、りりしくはねあがった眉といい、立派すぎる髭といい。今時、あまり流行らぬかも。

 否、流行りや見た目など、どうでもよいのじゃ。男は中身で勝負。度胸いちばんである。この顔は強さのあらわれである。うん、そうそう。なんてったって戦乱の勇者(荏柄平太)の顔を写した、とも言われているのだから。
 案外、この特徴のある顔は、子とも受けが良かったりするのだ(泣く子もおるかもしれぬが)。

(文責:小梅)

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