今月の特集曲

使用する面
能面小牛尉のちょっと自慢

前シテ 小牛尉
後シテ 邯鄲男

何と、面にも毛が生えている。ヒゲもある。それが尉である。

尉にもいろいろあるのだが、まぁ、気品という点では、群を抜きん出ているのがワシであろう。神を演ずる皺尉殿には負けるかもしれぬがのう。

額にはシワ、目尻・口元にもシワ。否、シワと言わず、年輪と呼んで欲しいものである。ぶよぶよとしていない、この引き締まった風貌をしっかりとご覧あれ。神が借りる姿として、私ほど相応しいものはない、と感ぜられよう。

(小梅)

元になった和歌
今回は、
われ見ても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 幾世経ぬらん
むつましと 君は白波 みづかきの 久しき世より いはひそめてき
(『伊勢物語』117段)
を取りあげます。

この和歌は『高砂』では後シテの一セイ(サシ)で使われています。
昔、時の帝が住吉に行幸された時に「私が見ても、長い時間が経っているのに、この住吉の岸の姫松は生えてきてからいったいどのくらいの時間を経てきたのであろうか」と詠んだところ、住吉の神が現れて「互いに仲睦まじいと帝はご存じないようだが、私は久しい以前から帝の御代を祝っていたのだ」と返してきたことをふまえています。

中世においては、次のように解釈されています。
「われ見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾世経ぬらん。この歌の心は、業平住吉の化現、しかれば、この浦に跡を垂れて幾世へてこの姫松を見つらんといへり。住吉大明神の御返歌に云、むつましと君は白波みづかきの久しき世よりいはひそめてき。此歌の心は、汝我が化身なれば、本末のかはりこそあれ、むつましとは知らぬかといへる心なり」(『玉伝深秘』)

このことから、帝の和歌も住吉の神(=後シテ)の述懐として採られているのでしょう。
ちなみに謡では、返歌の部分の一部だけ使われています。
なお、返歌の部分にでてくる「みづかき」は「瑞垣」で、神社の垣根のことを指していますし、「久し」という語は掛詞になっています。この掛詞は「1つのことばにそのまま2語の意味を兼ねさせる」もので、「神社の垣根がずっと続いている」ことと「久しく以前から」という意味を兼ねています。

さて、ここで疑問がひとつ。
なぜ帝は、住吉大社へ行幸したのでしょうか。
住吉大社は、天皇と関わりが深い神社で、古くは神功皇后が新羅出兵の際、住吉大神の御加護を得て大勝利を得たことから、天皇からの崇敬を受けていました。天武天皇をはじめ、歴代天皇や皇族の行幸啓、御神宝の御奉納などがしばしば行われていたようです。
奈良時代、遣唐使の出発の際には、必ず朝廷より奉幣があり、海上の無事を祈りました。
そのほか歌の神や祓の神としての崇敬も受けていました。
また現実に姿を現わされる現人神としての信仰もあったといわれていますので、後シテの登場の時にこの和歌が使われているのも、うなづけますね。

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