「正尊」の見どころ |
能「正尊」は、曲名に「正尊」と冠しているにもかかわらず、正尊の最後の場面をバッサリとカットしている。 そして能楽の『三読物』の一つに数えられる正尊の起請文を、観世流では正尊(シテ)が、金剛流では弁慶(シテ)が読み上げる。 すなわち「起請文を読む人=この曲の主人公」なのである。 とにかく「正尊」では、起請文を読み上げる場面が、見どころになる。 ちなみに『三読物』とは、 「安宅」の『勧進帳』 「木曽」の『願書』 「正尊」の『起請文』 の3つをさす。 |
それからの正尊 |
能「正尊」では、義経の夜討ちの末、正尊が生け捕られた時点で終わる。 しかし、『吾妻鏡』(鎌倉中期編集の編年体正史)・『平家物語』(鎌倉中期成立の平曲語り物による軍記物)・『義経記』(室町初〜中期成立の英雄伝説的軍記物)によると、正尊は鞍馬方面へ逃げたが(義経びいきの本山のような所へ逃げてどうする)、捕らえられて、六条河原で斬殺される。 その時の正尊の独白が、日本人好みで… 「・・・仰かうぶッしより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかはとり返し奉るべき。唯御恩にはとくとく頸をめされ候」(『平家物語』) 「・・・日本の武士は名を惜しむと申す事の候。生きて帰りて侍共に面を見えて何にかし候ふべき。ただ御恩には疾く疾く頸を召され候へ・・・」(『義経記』) そしてこの事件により、義経は頼朝追討の院宣を受け、一方頼朝もまた義経を討つべく出兵する。 いよいよ“悲劇の武将 義経”のドラマが幕を開けるのである。 |
作者について |
「正尊」の作者は、観世弥次郎長俊である。 室町時代北山文化(公家・武家・禅文化の影響あり)の中の世阿弥から、約100年後の東山文化(宋・庶民・武家文化の影響あり)の中の弥次郎長俊である。 各代の能作者の作品の違いは、各人の個性もあるが、各時代の雰囲気やその時代の人々の需要、それに答える能作者の求めるものを反映していておもしろい。 (文責 めぐ) |