舞台 |
紀伊の国、熊野地方。 険しい山間を流れる熊野川、音無川、岩田川。 三つの川の合流点にある大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中州。 そこは、川に挟まれた森。 まさに「川に浮かぶ森」であった。 明治22年8月の水害時まで、熊野本宮大社はその森にあった。 およそ一万一千坪の境内に、五棟十二社の社殿。幾棟もの摂末社。楼門。 神楽殿、能舞台、文庫、宝蔵、社務所、神馬舎などもあり、その規模は現在の8倍だったそうである。 縁起を辿ると、唐の天台山から飛行した熊野権現は、まず九州の彦山に降臨。次に四国の石鎚山。そして淡路の諭鶴羽山。 そこから紀伊半島の切部山、新宮神倉山などを経て、最後に、かの大湯原にあったイチイの木に三枚の月になって現れた。 それを、猟師が発見して祀ったのが熊野巫神社の三所権現であるとのこと。 この縁起にも「イチイの木」とあるが、現在は杉が覆っているお湯原(大斎原)は、今も熊野本宮ご神木の一つとされる「なぎの木」のような照葉樹の森であったのではないか。 険しい山々から切り取られたような、そのこんもりとした「川に浮かぶ森」は、神聖な気に満ち、人々に崇拝の念を抱かせたに違いない。 この旧社地、大斎原こそ、謡曲「巻絹」の舞台である。 |
アプローチ |
謡曲「巻絹」が誕生した頃には、音無川には橋が架かっていなかった。 参詣者は、音無川の冷たい流れに足を踏み入れ、心身を清めてからでなければ本宮の神域には入れなかった。 熊野本宮と言えば、音無川が連想されるほど、名を知られた川であった。 ゆえに、歌にもよく登場する。 28回もの熊野御幸を行った後鳥羽院の歌。 はるばると さかしき峯を 分け過ぎて 音無川を 今日見つるかな 都から約ひと月の行程を経て、また幾重もの険しい山を越えて、音無川を目にした時の院の感慨が伝わってくる歌である。 清少納言の父、清原元輔の歌では、 しのびて懸想し侍りける女のもとに遣はしける 音無の 川とぞついに 流れける 言はで物思ふ 人の涙は (音無しの川のように、ついに流れてしまった。密やかに、恋う人の涙だ。) 音無川は、別名「密河」である。音のしない、静かな流れだったのであろう。 もう一首、元輔の歌を。 熊野へまゐりける女、をとなし川よりかへされたてまつりてなくなくよみ侍ける 音なしの 川のながれは あさけれど つみのふかさに えこそわたらね 音無川は、禊の川であった。その川を渡ることを許されなかったとは、その人はどんな罪を犯したのだろう。 さて、その静かな川のほとりに、音もなく梅が咲き初めた。 謡曲「巻絹」の始まりである。 (文責:雲井カルガモ) |