使用する面 |
能面・・・なのか 直面のつぶやき ちょくめん−ではない。ひためんである。 面の名前−ではない。素顔なのである。 多くの曲では、素顔の上に面をつける。どんな顔でも、一目瞭然、ハイ変身である。しか〜し。素顔だと、そうはいかないのだ。その実の顔で得をしたり、損をしたり・・・してるのだろうか、それは分からん。 面をつけないならば、さぞ見易かろう、動き易かろうて・・・否それは違うのである。表情が、丸見えになるのである。ヘンによそ見もできない。まばたきすら遠慮する。すごい御仁になると、殆どまばたきはされぬ。恐れ入る。 何故に、面をつけぬのか・・・。宗教的意味を持たないためだとか・・・。そういえば、若いめの男ばかりぞ。勿論、生身の。 そして鬘(かづら)も頭(かしら)もなく、自前の髪なのだ。流石に金髪では、妙であろう。 面をつけるとしたら、源仲国氏の場合、どんなものかのう。お、ヘアースタイルは・・・なんて、ちょっと想像して楽しんでみたりして。 (文責 小梅) |
元になった和歌 |
今回は、 「木枯に吹きあはすめる笛の音を引きとどむべき言の葉ぞなき」(源氏物語 帚木) を取り上げてみたいと思います。 この歌は、源氏物語の有名どころのひとつ「雨夜の品定め」(女性論)の場面、源氏と頭中将の会話に加わった左馬頭の体験談に登場します。(前回「半蔀」時と同じく、源氏物語の解説など、とても私にはできません。。。そのあたりよろしくご了承の上お読み下さいますよう。) その昔左馬頭の恋人の一人に、和歌も詠め、書きつけもすらすらしており、お琴もセンスよく爪弾く女性がありました。それが上記の歌を詠んだ人です(以下木枯女という)。 同じ頃、彼は一番心を許せる恋人を死なせていました。どうしたらよいのかわからない彼は、その後しばらく足繁く木枯女のところに通いました。そんな左馬頭でしたが、やがてその木枯女の軽薄さが鼻につくようになり、頻繁に通う事はしなくなりました。 真実、木枯女には他にも通う人がおり(以下浮気相手という)ました。ある日ひょんな事から左馬頭自身が木枯女の浮気の現場を確認する事となります。まっ、そのいきさつは源氏を読んでいただくとして… それは、とても月の美しい夜のこと。 木枯女の邸の庭は、霜にその色も移ろわせた菊に、風に乱された紅葉と、秋の風情を多いに漂わせていました。そこへ通ってきた浮気相手が、月を見ながら笛を吹き鳴らします。その笛の音に女も琴を弾いて合わせたりした後、和歌のやり取りがあるのです。 浮気相手が、お邸のお庭に積もったもみじの葉を人が踏んで通った形跡がないのを見て、 「琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやとめける」 (琴の音も月も趣深いお宅なのに、つれない他の恋人をひきとめることはできなかったのですね…って感じでしょうか。) その歌に応えて、木枯女が上記のお歌を返します。 (木を枯らしてしまう冷たい風に合うようなあなたの笛の音を、引きとめる葉(言葉、術) など、私はもっていません。)って感じなのでしょうかね…。 ねっ、清く澄んだ月、秋の夜の風情、笛の音と琴…。 「木枯に…」の歌の背景は、能におけるこの場面の背景のイメージとぴったり一致しています。ねっ、ねっ。びっくりでしょ? また、これ以上恋しい人の使いの仲国を引きとめるわけにもいかず、黙って見送るしかない小督の心情を強く訴える為に、「言の葉もなし」と自然にリフレインできることも、この別れの場面の演出効果をあげることに強く働いていると思われます。 そしてそれに続けて、「言の葉もなき…」で帝の悲嘆の深さも再浮上させるあたり、全くすごいなあと思ってしまいます。 源氏物語の木枯女の恋愛と、小督の恋愛は全然タイプが違うものです(多分…)。が、その根本的な大きな違いを超えて、なお生きる和歌の表現力の懐の深さ…。 実は、私その昔この歌をもって、謡曲中に引用される和歌に関心を抱き始めたのでございます…。言葉ってほんとに力持ちだなあ…。 (文責 雲井カルガモ) |