今月の特集曲

菊慈童 VS 枕慈童

レッケン山という山の麓から薬水が涌き出たという噂を聞きつけた魏の文帝、早速、勅旨を遣わし、その源の探索にあたらせる。
勅命を受けた臣下が山に入ると山奥に庵がある。いぶかしんで辺りを調べていると、中から童子が現れた。このような狐狼野干の住処に何者かと問えば、周の時代、穆王に仕えていた慈童だとの答え。周の時代といえば、魏よりも数代以上も前のこと。七百年もたっているのに、生きていられる人間などいるものかと、なおも怪しむが、慈童は却ってその事実に驚く。そんなに時がたっていたとは…。慈童は当時、穆王の枕をまたぐという大失態のため、この山に配流となった身であったが、その際、穆王より問題の枕を賜わった。その枕には二句の偈がしるされており、その偈を菊の葉に書き写したところ、その葉に置く露が滴り流れて、不老不死の霊薬となった。その水を飲みつづけていたため、七百歳を生きているのである。
慈童は菊水の流れを汲み、勅旨に勧め、自らも飲みはじめる。
やがて酔い伏してしまうが、目覚めた時、七百歳の寿命を文帝に捧げると、
また仙家へと帰っていくのであった。

謡曲には「慈童もの」と呼ばれる一連の作品群がある。
いずれも 菊水の効験によって童形のままに何百年もの齢を保ち続ける少年を主人公とした内容のもので、原曲が成立したと思われる室町時代から江戸時代までの間に改作曲が多く生み出され、同工異曲の関係がかなり複雑になっている。現在でも残っているのは
観世流「菊慈童」と
 (これは他流では「枕慈童」と称する。)
観世流「枕慈童」。
このへんが、ややこしい。
あと金剛流の「彭祖(ほうそ)」なんてのもある。
「菊」や「枕」では慈童としか呼ばれてなかったのに、ここでは彭祖という名前がついているのだ。
ちなみに「菊」ちゃんが700歳なのにくらべ、「枕」ちゃんは800歳。
「菊」を改作したものが「枕」なので、長生きした方が祝言性が強いということだろうか。末広がりってことで800歳にしちゃえ…と時の改作者が適当に増やした訳ではないことを確かめるため、典拠にあたろう。


れっつらごー レッケン山

さて、典拠としては、『太平記』巻第十三・龍馬進奏事があげられる。
『太平記』といえば日本の南北朝時代。何故ここに慈童の話が出てくるかというと、話は長くなる。
 ことの起こりは後醍醐天皇のもとへ、駿馬が献上されたことからはじまる。
天皇が時の太政大臣洞院公賢に吉凶を問うたところ、吉瑞である、と答える根拠として彼は語りはじめる…。
 「その故は、周の穆王の時……」
穆王の時代に8頭の天馬がやってきた。
穆王はこれらの馬に乗り、どんな辺境でも世界の果てまでも駆けまわっていた。あるとき、西方へと馬を進め、中天竺まで行った時、そこでは丁度、釈尊が霊鷲山で法華経を説いておられる真っ最中。
ちょっと はしょると、まあそこでお釈迦様に八句の偈を授かることができたわけで。で、ここからやっと慈童の登場。その穆王の寵愛していた慈童が誤って帝の枕をまたいでしまい配流になる。そして、ここです。レッケン山といえば帝都を離れること三百里。この山に足を踏み入れたもので帰ってきたものはいない。穆王はそんな所へ慈童を送るのをたいそう哀れに思い、例の八句の偈のうち、二句をそっと伝授してあげるのだ。「毎日この句を唱えなさい」と。慈童はもちろん その教えを忠実に守ろうとするのだが、忘れたらあかん、と思ったらしく傍らの菊の葉にメモっておいた。この葉にたまった露が霊水となり、慈童が長生きしたのは ご承知の通り。
下流の人達もその恩恵を受けて長寿となった。
やがて 八百歳となった頃、魏の文帝に召し出され、この偈を文帝に授けたという。その時、彭祖と改名。文帝はこの教えを受け 菊花の杯を伝えて長命を祝福した。これが重陽の宴のはじまり。
「…それもこれも みんな穆王の天馬の功徳でありましょう。
 だから駿馬がやってきたのは 吉兆なんですよ」
ということが言いたかったのだった。
馬を誉めるだけで 随分手間がかかるものだ。
(しかもこの後、万里小路中納言藤房によって
 「穆王は馬で遊びすぎ」と凶兆あつかいされてしまっている。
 文帝も思いのほか短命。長い話の割にあんまり説得力がない。)

ちなみに 中国にはこのような説話は存在しない。
穆王については『穆天子伝』『竹書紀年』等で西王母と出会った話が残っているが、寵童の存在には触れられていない。
彭祖の名は『列仙伝』『神仙伝』に見られるが、穆王、菊花には無関係であり、殷の大夫であった長寿者が仙人になった話である。
その年齢は800歳とも767歳ともいわれている。
レッケン山については『荊州記』に「南陽県北八里有菊水」とあり、又、『風俗通義』によると河南省南陽の甘谷に流れる水は菊の慈液を含み、その水を飲んだ住民には百歳を超える者が多かったという。
これらの説話が別々に日本に伝わり、結びつき脚色されて行く中で、慈童という存在が創作されていったと考えられる。
そしてのちに謡曲の題材として採り入れられる。
こう見てくると、その時々の作者が どの部分を拾い、削るかによって、その内容も若干異なってくるのもうなづける。

(文責:くりこ)

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