今月の特集曲

「鉄輪」の内容
夫を寝取られた妻が貴船神社に丑の刻詣でをして呪う。神官を通じての神託に勇んでわが家に馳せ戻る。
一方男は夢見を気にし、天下一の陰陽師阿倍晴明を訪ねる。晴明は女の恨みと見抜き、男のたっての頼みに必死に祈祷をする。
はたして女は鬼女となってあらわれ、夫婦の人形に恨みを述べ、散々に打ち据え、連れ去ろうとするが、晴明の招いた三十番神に追い払われる。

『鉄輪』といえば丑の刻詣りですが、次のような実話もあるそうです。
相手の名を書き、その髪の毛などを藁人形に入れ、五寸釘で樹に打ちつけて呪う丑の刻詣り。今でもお宮の樹が倒れたのを製材しようとしたら、顔の高さに無数の釘が打ち込んであり、鋸の歯がダメになってしまったとか。
怖いですね…


『鉄輪』と『葵上』〜恋の恨み その違い〜
恋と憎悪は、表裏一体。
ここでは『鉄輪』と『葵上』をとりあげて、その違いをみてみようと思う。

『葵上』は六条御息所の生霊が、源氏の正室である葵上に対する憎悪から取り殺してしまおうとやってくる、という能である。
葵上にとって御息所は源氏の数多くいる恋人の1人にすぎない。
御息所がそれほどの嫉妬に狂うのは、源氏が御息所を捨ててしまったからである。
しかしこの能において、源氏は御息所にとって愛の対象であって、憎悪の対象ではない。御息所の生霊から源氏への憎悪はまったく聞かれないことからもそれはわかる。そのため葵上がその憎悪の対象とされたのだろう。
さらにその御息所自身の憎悪は葵上に投影され、
「葵上が私を憎み、侮辱したのだから、私は彼女を憎むのだ」
という形で正当化される。
これは狂気のメカニズムと言えるだろう。ここまでくると、もはや御息所自身には制御できない憎悪となってしまっている。
恋愛というお互いの妄想が交錯する場において、恋敵にいわれのない敵意を抱くことは、それ事態不自然なことではない。
しかし自分を傷つけ、ないがしろにした男(源氏)に対する憎悪を全く知らないという状況は、やはり自然とはいいがたい。またそれが捨てられた女の必然というわけでもない。

『鉄輪』という能にはまったく異なった事態をみることができる。
『鉄輪』のシテは夫に裏切られた本妻である。
夫が自分を捨て、別の女を妻に迎えたことを恨んだ女は、貴船の宮に丑の刻詣りに赴く。
貴船の社人から
「赤い衣を着、顔に丹を塗り、頭に鉄輪を戴いて灯をともし、憤怒の心をもつならば、たちまち鬼神となることができる」
というお告げを得て、女はその言葉通り鬼に姿を変え、後妻打ちに及ぶ。
しかし女が取り殺そうとするのは、何より「ことさら恨めしき、あだし男」なのである。
女は夫への憎悪をはっきりと自覚しつつ、また同時に自分が夫をなおも愛していることを知っている。鬼に変わった女は言う。

捨てられて、思ふ思ひの涙に沈み、人を恨み、
夫を託ち、
ある時は恋しく、
または恨めしく、
起きても寝ても、忘れぬ思ひの、因果は今ぞと。
白雪の消えなん命は今宵ぞ、痛はしや。

自らを取り殺そうとする夫は女にとってなお「いたわしい」のであり、夫がなおも恋しいからこそ、女は夫を憎悪し、憤怒を抱く。
自分を捨てた男に対するこの女の怒りは、いわば正当な怒りである。鬼となった女のこの言葉は決して狂気の言葉とは言えない。

六条御息所は身分も教養も自尊心も高い。それだけに非行動的で、受け身である。
それに対して「鉄輪の女」は下京辺に住む庶民で、自ら進んで丑の刻詣りに出かける行動的、積極的な女である。
常に周囲の目を意識せねばならない抑圧的な生活を生きる貴族の女は、自分を捨てた男をただただ愛し続け、恋敵に妄想的な憎悪を抱く。
一方、庶民の女は自分を捨てた夫に当然の怒りをぶつける。
この違いは、能の中でもはっきり区別されて表現されている。時代は変わっても、守るべきものがない女の方が強いように思うのは、私だけだろうか。



(文責:N)

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