今月の特集曲

継体天皇について
日本書記の系図上宮記の系図

 継体天皇とは、どういう人物か。

 『日本書紀』『上宮記』それぞれの系譜に説明されるように、継体天皇は応神天皇の5世の孫とされる。父は彦主人王と言う。
 まだ幼い頃に父を亡くし、母の振媛(ふる)は皇子の養育のために、故郷越前の高向(たかむく)に戻ったということである。故に「花筐」も前場の舞台は越前である。
 が、要は、それまでの応神王朝とは血のつながらない、その諡号(しごう)が語るとおり、体制を継いだ帝ではないかというのが、常識的見解のようである。その出自は結局のところ明らかではなく、新羅系の征服者とも越後の豪族とも言われている。

 恥ずかしい程に、何の先入観も知識もなく、日本書紀の解説書を読み始めた私だったが、そんな私にも、明らかに変だと感じられる先帝武烈の記事。こんな悪いことできるわけがない!という記載の連続である。全く妊婦の体に障る内容ばかり…。
 これは応神王朝と呼ばれる古代日本の天皇の血統の断絶をものがたるものだそうである。何事にも古代中国を参考にした日本が、やはりかの国の「易姓革命」による王朝の興亡の描き方を踏んだのではないか、という事なのだ。
 が、しかし、いくら中国に傾倒しているとはいえ、絶対に譲れない日本の主張もあった。天皇による王朝は交代しないという「万世一系」の信念である。
 故に話がややこしくなるのだ。ややこしいと言えば、継体天皇がその血統の根拠としている応神天皇も、実はその存在すら疑われる立場にある。王朝の祖と言われるからには、必ず存在するはずなのだが、仁徳帝と同一人物なのではないかとか、いろんなことが言われている。出生の場所や時期を思っても、果たして仲哀天皇の息子なのかな?というところなのだろう。

 話を継体天皇に戻そう。かの帝は、居られたことは確かである。それもなかなかの聖賢な専制君主であったとされる。
 しかし、越前巻向を出発してから「花筐」の後の舞台となる大和玉穂の宮に入るまで実に20年もかかっている。まず河内国交野郡葛葉の宮に行き、次に山城国綴喜に移す。その次は同じく山城国乙訓に遷し、そして終に大和磐余の玉穂に宮を造ったのである。
 この20年という歳月が何を語るのか?
 彼は征服者なのか、それとも血縁の途絶えた天皇家におムコさんに選ばれた地方豪族なのか。
 とにかく、先々帝の皇女をめとった彼は、正統な後継者として、記紀に語られる事となったのである。


照日の前について

 さて、継体天皇には8人の妻がいた。皇后は仁賢天皇皇女の手白香皇女だった。
 元からの妃に尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘、目子媛(めのこひめ)という人がいた。2人の子を生み、2人とも天下を治めた。継体帝の次の帝、安閑天皇とその次の帝、宣化天皇である。
 安閑天皇、宣化天皇の血筋は、その後途絶え、手白香皇女の産んだ嫡子欽明天皇の血統がその後脈々と続いていく。その先、推古帝まではその皇子、皇女達で、その後はどこまで続くのか…よくわからないが、つなぎ的に皇后が天皇に立てられる事はあっても、天智天皇くらい迄は間違いないようである。

 あっ、そんな事、ここではどっちでもいいのだった…。
 とにかく、その他の6人の妾を見てみても、照日の前らしき女性は探し出せない。
 「花筐」の小書きに安閑留というのがあるので、モデルはやはり元からの妃と言われる目子媛という事だろうか。
 継体天皇のところでも述べたが、天皇が越前を発ってから、大和磐余の玉穂の宮に入るまで20年。20年も音沙汰なしであれば、それはやっぱり気も狂うよな〜とうなずいてしまった。
 …しかし、それでは、余りにも熟女になってしまうというか、容色にも変わりあるだろうとか思っては台無しである。
 謡曲「花筐」では、そんな事は気にしてはいけないのである。

 品格ある色香を、時に清らかに、時につややかに、感じさせる照日の前。使われる面の幅の広さに驚いた。「若女又は深井」というのが最も多いのだろうが、「小面」を使っても「増」又後には「十寸髪」を使ってもいいらしい。実在しない架空の佳人、しかも高貴の人に愛されるべき優雅な女性ゆえの演出の幅の広さなのだろう。「長きにわたって放っておいてェ〜!」とかとは決して怒らない。
 重ねていく時の重みと、帝を恋い慕う自らの心にのみ向けられたまなざしを感じるだけである。それはとても深みがあり、しずかな光を放つ。
 改めて「花筐」という曲、照日の前というヒロインの持つ魅力に出会った気がした。

(文責 雲井カルガモ)

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