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〜源義経、酒宴の末のあわやの遭難か? in『船弁慶』〜


 文治元年(1185年)11月6日、源頼朝政権との不仲がささやかれていた源義経氏が乗船中、摂津国茅渟沖(現兵庫県尼崎市沖)にて遭難したとの情報が流れたが、無事であったことが判明した。

 同氏が西国へ下向する途中、摂津国尼崎大物乃浦にて逗留した際、同氏一行中の武蔵坊弁慶氏が、静女史の同行を諫めたため、同氏の承諾のもと、同女史の宿泊先へ帰洛するよう伝達するも、同女史が同氏本人に直接尋問したいと主張したので、同女史を同氏のもとへ同道した。そのため、別離の舞を伴った酒宴が催されるに至った。

 その後、船頭が出航準備完了を伝達したにもかかわらず、同氏は悪天候を理由に出航延期を要請した。それに対し、弁慶氏は同女史への未練と推量し、暴風・波浪警報下、飲酒のうえ強行に出航させた。

 今回の海難事件につき、遭難の危機に陥ったのは、弁慶氏による無理な出航が原因との見方がある一方で、平家一門の怨霊による嵐、並びに平知盛氏の亡霊が同氏を海中に沈めんがため、長刀による襲撃を企てたことが原因との見方もある。
 しかし、同氏が冷静に対処し、且つ、弁慶氏も数珠を使用しての懸命の祈祷、さらに舟子どもの必死の操船により、平家一門の怨霊も遠ざかっていったので、遭難の危機を脱したものである。

(文責:めぐ)

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