今月の特集曲

菅原道真(845−903)

日本の平安時代の学者、漢詩人、政治家。特に漢詩に優れた。
33歳の時に文章博士に任じられる。宇多天皇に重用され右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷されそこで没した。
太宰府に赴く際に詠んだ
 東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
という和歌が有名である。


天神信仰

 「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰のこと。
 本来は、天神とは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではなかったが、菅原道真が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅原道真の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになった。
 903年(延喜3)道真は流罪となった筑紫国大宰府(福岡県太宰府市)にて没したが、京都では落雷などの天災が相次ぎ、また藤原氏一族の変死が重なり、世人はこれを道真の怨霊によるものと畏怖した。その当時、社会的に強い影響のあった怨霊・御霊信仰と結び付き、道真の霊は雷神、疫神、そして天満天神と観念された。
 大宰府には没後2年墓所に廟社が建てられたが、京都北郊の北野の地には天満宮が創建された。ここはそれ以前より農耕生活とかかわり深い天神・雷神信仰による農耕祭祀が行われ、これと結び付いたようである。そのため、農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、恵みの神となって、広く全国に崇敬されていった。
 鎌倉時代以降に入ると社会的信仰と個人的信仰の両面で新たな展開がなされた。儒家菅原家の氏神・学徳への追慕から、儒学者・文人の間では文道・学問・書の守り神としての霊験が広まり、室町時代にはとくに五山禅僧の間に渡唐天神として中国風の思想も加え、菅公と梅との結び付きもここに由来する。(加賀の前田侯は大の菅原道真ファンで、家系を菅原姓に結びつけ家紋を梅鉢としたほどである。)
江戸時代には寺子屋教育の普及とともに学問の神として庶民の子弟にまで広まった。命日の2月25日、月々の25日には子供たちによる天神講が行われるようになった。個人信仰の面では、鎌倉期以降、天神縁起(えんぎ)の絵巻物が流布し、冤罪をはらす神、また加えて正直の徳ある神として道徳観を強めることとなった。
 なお江戸時代の浄瑠璃の『天神記』(近松門左衛門作)、『菅原伝授手習鑑』(竹田出雲ら作)も道真の一代記として、天神信仰の普及に影響を与えた。



(文責 とりあ)

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