使用する面

能面−般若のつぶやき(嘆き?)

 私は『道成寺』の後シテに用いられる般若と申します。その昔、般若坊という面打ちの手により生み出されました。いわゆる「怨霊」の役に使われます。こんな見目でも、女なのです。嫉妬とかなしみの極限の表情とのこと。私のいわゆる白目の部分をよく見て下さい。金色なのです。人間よりも鬼神に近いのです。女と生まれたというのに、何と哀しいことでしょう。
 つらいけれど、私は、この「怨霊」という運命を甘んじて受けています。『葵上』でも『安達原』でもなんでも来いです。
 ただ、どうしても耐え難きはテレビ時代劇『桃太郎侍』。なに故に、彼は私を伴って悪に立ち向かわねばならぬのか。この角のせいなのか。解せません。
 どなたか、その理由をご存じありませんか?

(文責:小梅)



 元になった和歌


 〜今月の特集曲「道成寺」で使われた本歌より〜

 今回は、「山里の春の夕暮れきてみれば入相の鐘に花ぞ散りける」(能因法師 新古今和歌集)をとりあげてみたいと思います。

 まずこの歌の作者能因法師は、平安時代の歌人(紫式部より1世代くらい下になるのでしょうか…)です。俗世にあるときは、大学に学び、文章生となった人らしいですが、26歳の時に出家をし、以後摂津の国に住みました。
 奥州、伊予などにも足跡を残しており、諸国を旅した旅人でもあったようです。
そういう人が「山里」というひなびた場所で、耳にする「入相の鐘」の音。
 それだけで十分「あわれ」を感じたことと思いますが、その上目に映るのは散る桜…。
 趣深い春の夕暮れを歌ったこの歌の主役は間違いなく「あわれさ」だと思われます。ただし、その「あわれさ」の感じ方はこの歌を知った人それぞれに異なるものでもあることでしょう。寂しさをより強く感じた人もいれば、美しさをより強く感じた人もいるという風に…。
 一方でこの歌は誰にも同じように感じさせてくれるものも持っています。
 それは、ただ刻々と過ぎて行く「時」です。私達は心の五感で、それを感じ取ることができます。
 能「道成寺」では、この歌のその側面を、実はうまく利用していると思います。
 この歌は急之舞のあたりで登場します。その場面の設定(季節や時間帯、舞台となった場所柄など)をあらわすのに、また場面の背景をなす「花の外にハ松ばかり 暮れ初めて鐘や響くらん」という光景の持つ「あわれさ」を創造させるのにぴったりです。
 ですがそれ以上に、まだ何事も起こらない不気味な静けさのうちに、ある一瞬に向かい流れていく緊迫した時間を演出するのに、大変な効果をあげていると思います。
 能を見る人は、心の視覚と聴覚で、この不気味な緊迫の時間の経過を静かに、しかし確かに体感しているから、この直後にくる場面急変の凄みをより一層強く感じ取る事ができるのではないでしょうか。
 最後に、能の歌異本の解説には初句が「山寺の…」となって、能因法師の歌として、記載があったように思います。が、私の見た新古今和歌集の解説書では、初句は「山里の…」とあったので、本歌としては、そちらに従う事にしました。
 あしからずご了承下さいますようお願いします。

(文責:雲井カルガモ)



[ 「道成寺」トップへ] [ HOMEへ ]