使用する面 |
能面 − 十六のつぶやき みなさん、こんにちは。僕は十六といいます。 十六っていう自分の名前、実はあんまり気に入っていないんだ。 この数字って、つまり僕の享年。そう、僕は幽霊なワケ。こんな名前じゃ、自分で宣伝してるみたい。 だから僕は、生きて活躍している人達に、憧れる。 酒飲んでうかれている子も、羨ましい。 長生きしている爺さんにも、なってみたい。 ちょっと寂しい、思春期なんだ。 自分の存在とか、生きている意味とか、それでなくても苦悩の多い時期なのに、 あんな時代だったから、眉はなんだか困った表情で固まってるし、大人になりきれてないから、髭も薄い。 僕としては悩みの種なんだけど、若くして散りし貴公子、ということであちこちでもてている。 ちょっと複雑な気持ちの、思春期なんだ。 (文責:小梅) |
元になった和歌 |
今回は 「わくらばにとふ人あらばすまの浦にもしほたれつつわぶと答えよ」(在原行平 古今集) を取り上げてみたいと思います。 この歌の作者在原行平(ありはらゆきひら)は、ご存知「昔男」業平のお兄さんです。 父は平城天皇の皇子阿保親王、実の母親については、不明です。恐らく九州の女の人だろうと言われています。平城上皇が関わったクーデター「薬子の変」により、阿保親王も一時都を追われ、大宰府にいましたが、行平が生まれているのはその頃だからです。 行平は文才同様、政治・経済の才にも恵まれた人だったようです。藤原氏がますます隆盛する中、しかも上記のような微妙な立場にもかかわらず、中納言になるなど出世しています。(最終官位は正三位) さて、「わくらばに」の歌には 「田村の御時に事にあたりて 津ノ国のすまといふところにこもり侍りけるに 宮のうちに侍りける人に遣はしける」 ということばが添えられています。 「田村の御時」というのは、文徳帝の御世のことですが、「事にあたりて」について、献歌の一首が帝の怒りに触れたとか、中納言藤原師茂を殺して勅勘をこうむったとか、やはり同じくその頃の官位の記録が残っていない事から、業平も津の国にいたとか、いろいろ話はあるようですが、結局確かな事はよくわかりません。何があったんでしょうね。 理由はともあれ、行平は須磨にいました。 都を追われた貴人の目に、見なれぬ浜辺の風景は一層侘しく映った事でしょう。 須磨の浜辺に立った彼は海の向こうに何を見ていたのか…。 いろんな意味で遠く離れてしまった都、この世の無常、自分の無力さ…。 行平の一件で作られた「須磨の浦」のイメージは、後世にまで受け継がれ、源氏物語、そして平家物語の世界をより豊かなものに発展させていくことになります。 さて、「須磨の浦」のイメージ作りの役割の一端を担った上記の歌…、 「もし、たまたまにでも、私のことを問う人が居たら、このすまの浦に、土地の人(海人)と同じように、もしお(塩を取るためにくんだ海水)をたらして、気弱に暮らしていると答えてください。」 という心情で詠われたものでしょうか…。 「敦盛」ではこの歌というか、この歌を意識した場面は、シテが登場して比較的すぐ展開されます。草刈達が、わが身の現実、それも落ちぶれた境遇を嘆くとは、少し不思議な場面です。 しかもそこでひかれているのは、行平つまり高貴な都人の歌…。 いつもながらの能の前シテの怪しさがちょっと漂うところです。 まっ、見所にいる側も普通はその前シテは敦盛の亡霊とわかって見ているので、どちらかというと、少年敦盛の「僕は一人でさびしいよ…」という心情を生々しく感じ取るのをたすけてもらうほうが大きいでしょうか。 この歌の情緒は、ずっと「敦盛」の底辺を流れており、直接的にはクセの場面で再浮上し、間接的には平敦盛の人生の哀しさと美しさを描くカンバスとして威力を発揮していると思います。 うへっ。長くなってしまった…。終わりまで読んでくれた人います? どうもありがとうございました。 (文責 雲井カルガモ) |