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直面のまだ見ぬ面 今度は『安宅』。弁慶殿か。ちょっと、いばりんぼになってみよう・・・ってそれは勿論、シテ殿の心ひとつ。ストレートにはなかなか行かぬ。 ところで私は、まだ見ぬが、面の裏面(?)というのは、なかなか面白いらしい。そりゃ、そうだ。オモテは、それぞれ、すましていたり、怒っていたり、果ては無表情の代名詞のように言われ、さまざまなれど、裏は裏。内側からしたら、目・鼻・口の形や大きさだけがポイントになるだろう。勿論、輪郭も。裏から見たって、違いの分かるものは多いらしい。そりゃそうだ。女と鬼神じゃ、全然違う。けど、そっくりなのも多かろう。但しみんな作者のクセはあっても表情とはほど遠いものであろう。 だからどう、ということはない。面をつける時はどういう心持ちなのか、その気持ちと面をつなぐのが面裏なのか、ならば裏とは、まっさらな何もない状態であるものなのかと、少ぉし思いを馳せてみたかっただけのこと。 (小梅) |
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今回は、 「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬもあふさかの関」(蝉丸 後撰集) を取り上げてみたいと思います。 この歌の作者蝉丸(せみまろ、せみまる)についての、確かなことはわかりません。 確実なのは、目が不自由であったこと、琵琶の名手であったことと、逢坂の関の辺りに庵室を営んでいたことくらいなのでしょうか。 今昔物語では、宇多天皇の皇子、敦実親王に仕えた身分の低い使用人であったとされ、又平家物語などによれば、醍醐天皇の第四皇子だったとされています。 俗的なことに未練を持たない気高さと、琵琶や歌に迸る類まれな感性が、それらのお話を生んだのでしょう。 さて、上記の歌ですが、皆様ご存知の通り百人一首にも入っています。 (坊主めくりを盛り上げてくれるのよね!) 百人一首では「別れつつ」が「別れては」とされていると思います。 それにしても、この歌って、わかりやすいようで、とてもわかりにくい。。。 なんと言っても蝉丸は音楽家! 歌の呼吸も無視できなかったに違いないと余計なことを思ったりしました。 そこを頑張って、誠に私的に歌の心を探求。 「発つ人あり、帰る人あり、ここは別れの場。 見知らぬ他人も、よく知った人も、もし出会えるならここ逢坂の関」 という感じなのかなあと思っています。 蝉丸の生きた時代の「逢坂の関」は東国との境目。 しかも当時の旅は、困難も多く、旅立ってしまえば、無事の帰京はとても難しいことだったでしょう。 現在の私たちの感覚からすると「逢坂の関」は国際線のロビー…、いえそれ以上に「別れ」と「出逢い」を切実に意識させたところだったのでしょう。 さて、人生も出逢いと別れの繰り返し…。 現在の詩にも、駅や空港で行き交う人を見て人生の縮図を見るようだと、うたわれることがよくあります。 きっと蝉丸も「逢坂の関」を通る旅人達を、見えぬ目でせつなく見つめていたのでしょう。 それからそこに留まる自分自身も。 「安宅」では、この曲の主な舞台となる安宅関につくまでに、(当たり前ですが)一行が都を出て逢坂山付近を旅している辺りで引かれています。 東国に入ろうとするときに、せめてもう一度都の方を見納めたいとそちらを眺めてみても、春のかすみが隠してしまい、遠く都を眺めることすら出来ないという設定。 義経一行の居場所のなさと、この先の旅の困難さが象徴されています。 この一首で義経一行の旅の緊張感と、十二人それぞれの運命の哀しさをうまく演出していると思います。 (文責 雲井カルガモ) |